失夢症に関する症例集
失夢症に関する症例集
症例:伝説の美少女
「まったくこの部屋にはもううんざりだわ」
洋子はソファにだらしなく横たわって中空に言葉をなげる。
「んー」
テーブルでカップヌードルをずぞぞしながら良子が答える。
二人は真っ白い部屋で伝説の美少女に生まれ変わるのを長い間待っている。
事の顛末は、こうだ。
ある日、それぞれの目の前に死神が出てきて
「今の命を放棄するなら来世で伝説の美少女にしてあげよう」
と言ってふたりはOKしたのだ。
そしてこの部屋に案内された。
「あの言い方だとすぐにでも転生できそうだったのに実際はこんな部屋で転生を待たなきゃいけないなんて詐欺よね」
「うん、ずぞぞ」
「せめて中学最後の合唱コンクールに出ておけばよかった。あんなに練習したのに。あとクリスマスとお正月も楽しんでからにすればよかった」
「洋子ちゃん後悔しまくってるよね、ずぞ」
「まあね。おーい、ケーキ」
洋子がそう言うと、白い壁の一部がぷわわと開いて中からケーキがにゅっ、と出てくる。
「でもこのお部屋にいると、言えばなんでも貰えるから楽しいじゃない、ずぞ」
「それはそうなんだけどさ、ぱく」
「わたしは楽しい」
「そりゃあ楽しいけど、いつまでもこんなじゃやってられないよ。さっさと美少女になってちやほやされたい」
ぷつっとリモコンをONにしてTVを見る洋子。
「もうちょっとこのままでもいいかなって思うけどなあ。クッキー」
「でもさ、私は良子がラーメン食べるたびにカウントしてたのよ」
洋子はノートに正の字がずらずら並んでるのを見せる。
「かなり時間経ってるのよね」
「色んならーめん食べれてうれしい。サク」
「さっさとこの退屈な部屋からぬけだしたいよー」
「・・・」
「なんの未練もないよこんな部屋」
「・・・サク」
*
という感じでたらたら過ごしていたある日、死神がガチャリと入ってきました。
「いやお待たせ致しました」
「おっそーい!」
「手はずが整いましてね。さ、どちらから転生致しますかな」
「は?二人一緒じゃ・・」
「伝説の美少女だから転生にパワーがいるのです、一緒は無理でございますね」
「まあ伝説の美少女が二人じゃややこしいもんね。じゃあ良子はとびきりのお嬢様にしてあげてよ、伝説ほどじゃないけどかわいい子に」
「そういうのは無理でございます。一人一人別々の時代に生まれ落ちて頂かなくては」
「やだ!!!」
洋子は涙を浮かべ悲痛な顔で叫ぶ。
「良子と一緒じゃなきゃいやだあああ!!!」
良子のひざに泣きつく。
めがねの位置をスチャと戻して良子が冷静に言います。
「私は伝説の美少女などではなくて構いませんからなんとか洋子ちゃんと同じ世代、できたらお友達として転生したいのですがむつかしいでしょうか」
「無理ですね」
「ひどいよひどい!!詐欺死神!!こんなに私たちを仲良しにさせて平気で引き裂くだなんてあまりにもシステマチックじゃん!!」
ふたりは抱き合っておいおい泣きました。
「ま、でも方法が無いって訳でもないわけでも・・」
「「あるの?」」
***
ざざん・・ざざん・・ここはとあるひとけの無い海岸。
どこまでも続く波打ち際にふたつキラリと輝く小さな桜貝が並んでひなたぼっこしておりました。
「ねー」
「ん?」
「一緒に生まれ変われて良かったね」
「そだね」
「あーでも貝は退屈!」
「また言う」
「まあでもこうして寝てるだけなのも楽しいよね」
「そうそう」
海岸は今日もおだやかに、どこまでも静かに晴れていたのでした。
失夢症に関する症例集
症例:唇は
心地良くないはずの粒の配置は必ず心の裏側に模様を描くはずなので、唇は。
まかり通るほどの数の普遍性ならば再び砂の記憶を舞いあげるはずなので、唇は。
夜の泡たちに全ての駆け引きの術を託す白く脆い有限の骨格があるはずなので、唇は。
まつろわぬきっかけに薫る瞬きであれば次第に声が結晶化していくはずなので、唇は。
劣化していくほころびの先に淡く光る硝子状の扇が開くはずなので、唇は。
誘惑の星と踊る運命もろとも舞台は観客たちに舌打ちをされるはずなので、唇は。
あでやかに注がれた銀色の液体は容器の周囲に汗をかかせるはずなので、唇は。
喉を鳴らす確固たるシステムが振り切るはずの衝動に恐ろしい夢が漂うはずなので、唇は。
あらゆる約束の螺旋の波が燃えつけていくのを哲学は震えながら待つはずなので、唇は。
擦り切れた隠語をただ集め書き写そうとする逆襲の意志の根は深いはずなので、唇は。
脆弱な可能性を司る怪しげな井戸の底から心拍数が急展開するはずなので、唇は。
迷彩のざわめきは真空のたてがみを携えて輪郭に哀色を帯びるはずなので、唇は。
か細くさかのぼる比喩が指し示す傾斜の予感は淘汰されるはずなので、唇は。
失夢症に関する症例集
症例:緋色の宝石
ホットケーキにシロップをななめにストライプ状に垂らす。
透明な蜜色があざやかにできたてのホットケーキに音も無く馴染む。
そうしながら私は昨日の出来事を思い返し、許せるか/許せないか、許せないのであれば、恨むか/恨まないか、恨むのであれば☆はいくつつけるべきか、を考えていた。
結果、☆が4つついた出来事は、昨日電車で私が降りた後に、私が座ってた場所に薄汚いおじさんが座った事だ。
私は目の前に立っていたかわいい女子大生っぽい人に座って欲しかったのに。
私が座っていた場所はその汚物によって汚され、吸収され、蹂躙されたと認識する。
あなた、そんな何の役にも立たない小品、また買ってきたの。
そう煩く云う母は一度だけ涙を見せた事があって、それは彼女が大切にしていたマリア様の像を不安定だった頃の私が壊してしまった時。
あの時、彼女は大声を出してそれからびっくりするくらい気弱なすすり声をあげた。
死の寸前の鼠みたいに小刻みに震える私は心が張り裂けそうで、彼女の様子もそうだけれど私がしてしまった行為が恐ろしく、それまで信じた事もなかったけれど、かみさま、と無償の救いを請うた。
割れてしまったマリア様の微笑をたたえた口元が開く事は無論なかった。
あの人からLINEのメッセージがくる。
「昨日髪の毛ひっぱってごめん」
わざとやられたの知ってる。
Soft tone。あの子の硝子の鳴る様な柔らかい声が頭の中でツキンと響く。
あんな男と一緒にいてはだめ。
あんな男が住んでいる街に立ち寄ってはだめ。
知ってるんだからこないだそこをうろうろしてたの。
こっちこそ知ってる。
あの人と一緒にホテル行ったじゃない。
私を決してあげてくれない自分の部屋に連れてったじゃない。
私の手帳には寂しい事がみっちり書いてあって、表紙には「光あれ」と旧約聖書と同じ綴りで書いてあって、最後のページには白いインクで全部真っ白に塗りつぶしてある。
白く塗った下には元々大嫌いな自分の要素が約404個書いてあったけどもう真っ白になってるから存在していない。
前に腕を切った時、そおっと水の入ったコップに垂らした。
朱いしずくが華が咲く様にふくらんでとてもきれいだった。
それを撮影したらまるで宝石の様だったから、あの子とお気に入りの喫茶店で会った時に見せたらあの子はほぼ無反応で、自分が注文したスイーツのお皿をべちゃべちゃに汚していた。
私は反応が貰えなかったから立場が無く、力無くあは…と笑いながらあかくにじんだ傷跡をぎゅううって押していた。
食べた後が綺麗な様にお皿に少しもパウンドケーキの欠片を残さないように食べながら。
One more, two more, three and more.
大好きだった音楽の先生が教えてくれたおまじない。
あの子はかわいいから私の憧れだけど、馴れ馴れしくしないでって遠まわしに言っているのは分かってる。
あの子にたかる他の子たちもかわいらしい。
蝶の様。
でも清楚な風にしてても正体はけばけばしいから、私のあの子に余計な花粉をつけないでっていっつもはらはらしながら彼女たちの他愛もない(けど、私は入ってゆけない)会話の場に、あは…って笑いながら一緒に居させてもらっている。
そしてあのおまじないを唱える。
先生は言った。
いい?
Oneはあなた、その次に大切な人、それから他の人達。
いつまでたってもおまじないは成就しない。
three and moreの中の私は、緋色の宝石がにじんだ跡をぎゅうぎゅう押している…
…イメージの中で、おいてけぼりの子が大切につまらない石ころを持っているから無性にむかついて、とりあげて地面にたたきつけたら、思っていたより軽い音で安易に壊れてしまって、私はざまあみろ!と大声を出す。
大切な石を壊されたおいてけぼりの私は、その大声が怖くて。
怖くて。